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萩市内の観光案内

萩市内の観光案内
萩城跡指月公園

萩城跡指月公園

萩城は慶長9年(1604年)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれています。明治7年(1874)、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています。

松下村塾

松下村塾

松下村塾は、幕末期に吉田松陰が主宰した私塾です。塾は天保13(1842)年、松陰の叔父である玉木文之進が自邸にて開設しました。塾では身分の区別なく学ぶことができ、幕末維新期に活躍し、近代日本の原動力となった数多くの逸材が輩出されました。

松陰神社

松陰神社

松陰神社は、明治23(1890)年に吉田松陰を祀って建てられた神社です。境内にある「吉田松陰歴史館」では、短くも激しい吉田松陰の生涯を20シーン70余体の蝋人形で再現。説明版と音声ガイド付きで、松陰の一生が分かりやすく紹介されています。

伊藤博文 旧宅・別邸

伊藤博文 旧宅・別邸

伊藤博文は、天保12(1841)年熊毛郡束荷村の農家に生まれました。旧宅は、木造茅葺き平屋建ての約29坪の小さな家です。旧宅に隣接する別邸は、明治40年、伊藤博文が東京府下荏原郡大井村に建てた広大な別邸の一部を移築したものです。

玉木文之進旧宅

玉木文之進旧宅

松下村塾の創立者であり、吉田松陰の叔父である玉木文之進は、明治9年(1876)の秋、前原一誠の起こした萩の乱を阻止出来ず、養嗣子(乃木大将の実弟)正誼をはじめ門弟が多く参加したことから「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、自刃しました。享年66歳。

吉田松陰誕生地ならびに墓所

吉田松陰誕生地ならびに墓所野

万延元年(1860)2月7日が松陰没後100日にあたり、杉家では百日祭を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し故人の霊を弔い遺髪を埋葬しました。
「松陰二十一回猛士墓」とある墓碑は同月15日に建立されました。

東光寺

東光寺

毛利吉就が1691(元禄4)年に創建した大照院とならぶ毛利家の菩提寺。3代〜11代までの奇数代藩主夫妻が葬られています。毎年8月15日に行われる「萩・万灯会」の送り火では、約500基の石灯篭に灯が入り、まさに幽玄の世界が広がります。萩の歴史に思いを馳せるには最適の場所です。

萩博物館

萩博物館

「萩まちじゅう博物館」の中核施設です。萩開府400年の記念日である平成16年11月11日に開館しました。萩の歴史・文化発信拠点として、吉田松陰、高杉晋作をはじめ幕末維新関連の実物資料を展示のほか、萩の文化、自然を模型映像を駆使して紹介しています。館内には、萩の素材を使った料理が食べられるレストランもあります。

山口県立萩美術館・浦上記念館

山口県立萩美術館・浦上記念館

萩出身の実業家である浦上敏朗氏のコレクションをもとに、平成8年に開館した浮世絵版画と東洋陶磁器を専門とする美術館です。浮世絵約5,200点、東洋陶磁約500点、陶芸約750点(平成23年現在)を所蔵し、平成21年に発行された旅行ガイドブック「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」では2つ星の観光施設として掲載されました。

木戸孝允旧宅

木戸孝允旧宅

維新の三傑と詠われた木戸孝允、別名“桂小五郎”の生家。生まれてから江戸に出るまでの約20年間を過ごした木造瓦葺の2階建ての家は、中に入ると、誕生の間や幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真などが展示されています。建物内にはボランティアガイドが常駐しているので詳しい説明を聞くこともできます。

高杉晋作誕生地

高杉晋作誕生地

幕末の風雲児・高杉晋作の生まれ育った家です。建物は江戸期より縮小されているが当時の面影をよく残しています。敷地内には、晋作ゆかりの品や東行と号した句碑・産湯の井戸などがあります。慶応3年(1867)結核のため、享年29歳という若さでこの世を去りました。萩博物館にも晋作資料室があるので一緒に見学するのもおすすめです。

菊屋家住宅

菊屋家住宅

藩の御用商人を務めていた豪商・菊屋家です。屋敷は江戸初期の建築、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史があります。主屋をはじめ5棟が国指定重要文化財に指定され、約2000坪の敷地の約3分の1が現在公開されています。また幕府巡検使の宿として本陣としての役割も持っており、当時の様子を約20年前に復元し一般公開しています。

藍場川

藍場川

延享元年(1744)農業用水路程度であったものを大きく開削したのが藍場川で、2.6キロメートルにわたり市内を縫うように流れています。大川(松本川)より水を引いたので、それに対して溝川と呼ばれ、農業用水をはじめ防火用水、川舟による物資の運搬や水害時の水はけに利用されました。その後、明和年間(1764~71)藩営の藍玉座が設営されたことから、藍場川と呼ばれるようになりました。

旧湯川家屋敷宅

旧湯川家屋敷宅

藍場川沿いにある藩政時代の武家屋敷で、川沿いに長屋門があり、屋敷の中には橋を渡って入ります。主屋には玄関、座敷と茶室などがあり、特に茶室回りの意匠が優れています。川の水を屋敷内に引き入れて流水式の池泉庭園を造り、池から出た水を家の中に作られたハトバや風呂場で家庭用水として使った後、再び川に戻しています。

桂太郎旧宅

桂太郎旧宅

明治維新後、3回にわたって内閣総理大臣を務めた桂太郎の旧宅です。桂太郎は、萩藩士桂與一右衛門の長男として、萩城下平安古に生まれ、3歳の時に川島に移り住みました。この旧宅は、明治42年(1909)に新築したもので、主屋は派手さを抑え、規模も比較的小さなもので、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために造られています。藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園内には桂太郎公銅像が建っています。

平安古 鍵曲

平安古 鍵曲

鍵曲(かいまがり)は、左右を高い土塀で囲み、道を鍵の手(直角)に曲げた道で、一見行き止まりかと錯覚させるような独特な道筋です。藩政時代、堀内地区に屋敷を構えていた重臣たちは、堀内が手狭になったことから新たに平安古地区に下屋敷を求めました。その重臣たちの屋敷を守るために造られたこの平安古鍵曲は、堀内地区・追廻し筋の鍵曲とともに、城下町特有の街路の姿をそのままに残しています。

堀内 鍵曲

堀内 鍵曲

鍵曲(かいまがり)は、左右を高い土塀で囲み、道を鍵の手(直角)に曲げた道で、一見行き止まりかと錯覚させるような独特な道筋です。堀内地区は藩政時代の城内三の丸にあたり、藩の諸役所や、毛利一門、永代家老、寄組といった大身の武家屋敷が並んでいた場所。追廻し筋の鍵曲は、平安古地区・大児玉横町の鍵曲とともに、城下町特有の街路を現代にそのまま残しています。昔のままの萩らしい風情を残す閑静な散策道として見どころのひとつです。

高杉晋作誕生地

口羽家住宅

口羽家は毛利氏の庶流で、石見国邑智郡口羽村を領したことから口羽の姓を名乗りました。関ヶ原の役後、毛利に従い萩に移り、藩寄組として1,018石余りを領しました。口羽家は主屋と揃って残り、現存する屋敷として最も古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷の一遺例として価値があります。その表門は江戸桜田の藩邸の門を下賜されたもので、萩に現存の門では最大規模を誇ります。

田中義一別邸

田中義一別邸

昭和2(1927)年、第26代内閣総理大臣となった田中義一の別邸。昭和2年(1927)内閣総理大臣。翌3月、共産党に対し大弾圧を行い、同年6月には緊急勅令をもって治安維持法を改正するなど、反動的政策を行い対外的には対中国侵略の強硬外交方針をとったが、張作霖爆殺事件によって昭和4年に辞職。享年66歳。
明治期には、夏みかん栽培を奨励した小幡高政がここに居住し、建物の主要骨格が形成されました。

萩反射炉

萩反射炉

反射炉は、鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉で、萩藩の軍事力強化の一環として導入が試みられました。萩藩は安政2年(1855)、反射炉の操業に成功し ていた佐賀藩に藩士を派遣し、鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れますが、拒絶され、反射炉のスケッチのみを許されます。現在残っている遺構は煙突にあたる部 分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)です。わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡です。

野山獄跡

野山獄跡

野山獄には、安政元年(1854)、海外密航に失敗した吉田松陰が投じられました。松陰は、囚人たちに孟子の講義をするとともに同囚からも自ら唄や書を学び、獄吏でさえも廊下で松陰の講義に耳を傾けたという話は有名です。また、野山獄は維新前夜の文久・元治年間(1861~64)、藩内の論争に際して高杉晋作をはじめ多くの志士が繋がれ、さらに11烈士(正義派)のほか保守派の坪井九右衛門や椋梨藤太など多くの人が処刑されたところでもあり、維新史を語るうえでも重要な遺跡です。当時の敷地の一部を残し、現在は記念碑が建てられています。

萩観光案内図

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